大きな逆境からスタートした経営者の道
兵庫県宝塚市で明治時代から続く材木屋に生まれ、将来は副社長として家業を継ぐことが決まっていたという山田氏。しかし高校3年生のときに材木屋が倒産、夢であった東京の大学への進学を断念し、卒業するとすぐに土木関係の職に就いた。
「当時で10億円以上あった借金を一人で返すと決め、昼の土建業と夜のアルバイトを掛けもちして、まさに寝る間も無く働きました。特に本業の方では、出始めたばかりの軽量鉄骨に目を付けて構造計算などを勉強し、大工さんにセールスして自ら基礎工事を請け負うようになった。そうした流れで山田鉄工建設を創業したのです」
山田氏が20代で立ち上げた山田鉄工建設では、見晴らしの良い傾斜地での住宅建設など、鉄骨のメリットを活かした工法も採用。建売事業で売上を大きく伸ばし、すべての借金の返済を終えた1980年には、山田不動産を設立した。
その後は大阪の「キタ」エリアを中心に不動産事業を展開。30代で北新地や茶屋町に自社ビルを所有し、当時はまだ未開発エリアだった茶屋町エリアの発展に貢献するなど、不動産事業でもその才覚を大いに発揮した。さらには幼い頃から親しんできたゴルフや30代で入った青年会議所などで得た人脈から、広大な敷地を活かした倉庫業や、神戸牛を提供するレストラン事業などをハワイでスタート。今や数件のレストランや高級コンドミニアムも構えるなど、海外事業についても、大阪や兵庫、さらには京都などの一等地を中心とする国内不動産事業を凌駕するまでに成長させた。
国内外の事業を二人の息子にそれぞれ継承させながら、84歳となった今も自ら様々な事業を手掛けるなど、逆境を乗り越えて手にした大きな成功。しかし山田氏は常々、「ビジネスの成功や稼いだ金額が人の価値ではない」と口にする。
「商売は下手だったかもしれませんが、いつも周囲の人々に対して謙虚に接していた父の姿や、『お前が儲ければその分どこかで誰かが泣いている。そのことを心に留めておきなさい』と、父が説いてくれた言葉は今も心に残っています。だから私は、土地を購入する際には他よりも高い価格で買い取るなど、目先のお金よりも人情や信頼を大切にしてきました。また、自分のビジネスが上手くいっていることだけを良しとせず、若い頃からボランティア事業にも力を入れてきたのです」