正確かつスピーディな仕事で信頼を獲得
「新型コロナ禍でダメージを受けた業界は多いですが、クルマで移動する方が増えたせいか、弊社の場合はむしろ仕事量が増えました」と語る、代表取締役の北中一男氏。現在、国産自動車メーカー5社の整備会社内に出張所をもち、新車の納車仕上げを行っている。最も大口の取引先では、1日に約200台もの車両を手がけている。「各社とも初めは1~2名体制からスタートさせていただきましたが、仕事の丁寧さ、納期の正確さ、工場内での対応のよさなどから信頼関係が深まり、取引が増えていきました。人員体制さえ整えば、さらに取引を伸ばしていくことが可能だと考えています」
ナニワ電装は、元々は北中氏の父が興した会社だ。北中氏は工業高校の電気科に進んだが、その時点では家業を継ぐ気はなかったという。「父個人でやっていた小さな事業でしたし、私はクルマより航空機の整備に興味がありました。しかし求人がなかったのでその道には進めず、30歳まではPC関連の会社で働いていたのです。その間に景気の急上昇とともにナニワ電装は大きく成長。事業は父と弟で営んでいましたが、人手が足りなくなったため家業を手伝うことにしました」
その結果、収入は大きくアップ。順風満帆に思えた。しかしわずか1年半後に、大きな不幸が待ち受けていた。バブル崩壊で、仕事が一気に減ってしまったのだ。「給料がまともに出ないので、ナニワ電装の仕事が終わると夜はピザ屋の配達のバイト。毎日の昼食は菓子パン1個。コーヒーも買えず、財布の中身は70円。そんな生活が10年続きました。毎日ずっと下を向いていましたね」
まさにどん底の状態。しかし家族を養うために、過労死が頭によぎるほど、仕事だけは必死にやっていたという。「少しでも稼げるように、正確さは当然として、いかに早く作業できるかを追求していました。そうすることで、通常1台分にかかる作業時間で3台はこなしていましたね」
働きやすい環境が仕事の質を上げる
こうして苦境を耐え抜くうちに、少しずつ景気とともに業績も回復していった。北中氏が事業を法人化し、引退した父に代わって社長に就任したのは40歳のときのこと。最悪の時期は脱していたものの、まだ経営は安定しているとはいえず、不安ばかりのスタートだったと語る。
「当時は従業員を20人ほど抱えていましたから『来月の給料を払えるだろうか』とお金の心配ばかりしていました。経営を学んだこともないので手探り状態でしたが、まずは10年間父の経営を見ていて感じた問題点を解消しようと思いました」
問題点とは、従業員の待遇だった。給与面に加え、教育研修や福利厚生を充実させ、十分な休暇をとれる仕組みを整えた。「この仕事は、始めてすぐものになるものではなく、最低1年は経験を積んで、そこからが本当のスタート。ただ父は昭和の人間ですから、『見て覚えろ、嫌なら辞めろ』という姿勢でした。それでは長く続かないと思っていたのです」
こうして従業員の働きやすさを意識しはじめた頃から、不思議と経営状態も上向きになっていったという。「会社の雰囲気がよくなったことで、従業員一人ひとりの意識も少しずつよい方向へ変わっていったのだと思います」
それが結果的に仕事の質、取引先からの信頼の向上につながっていったのだろう。
今後も時代に合わせて環境を整えていきたいと語る北中氏。近いうちに2交代制の勤務形態も導入する予定だ。
「近年は、従業員の考え方が二分化しています。一方はお金よりも自分の時間を大切にしたいという考え方。もう一方はお金のために残業も歓迎という考え方。昔は後者が大半でしたが、今は前者と後者の割合が4:6ぐらいですね。人手は常に足りないので、柔軟な姿勢で人材を確保していきたいです」
それと並行して、将来的に管理職になれる人材も育てていきたいという。
「社長になってからは工具を握ることはしなくなりましたが、それでもずっと現場でプレイングマネージャーとしてやってきました。しかし最近は従業員だけで現場を回せるようになってきたので、私はそろそろ経営に専念しようと思っています。そのために管理職を増やしたいし、実際に自分からやりたいという人材も出てきています。いずれ彼らが独立して支店を持ってくれるとうれしいですね。60歳になるまでには、引退してのんびり暮らすことが理想。とはいえ性格上、この先もずっと仕事は続けていくでしょうね」