
10年後も生き残るために求めた独自の技術
転身のきっかけとなったのは、故郷・鳥取でメッキ加工と表面処理の家業を営んでいた父や兄からの誘い。祖父が興した株式会社アサヒメッキは当時兄が継いでいたが、後継者がいないこともあり、戻ってこないかと声をかけられたのだ。
こうしてアサヒメッキに入社した木下氏。現場で一から仕事を覚えることとなり、めっき技能士の資格を取れという父や兄と大げんかになった。
「現場には優秀な社員が多くいる。私はすでに40歳を超えていて、彼らに追いつくには10年はかかる。何の意味があるのかと。しかし『文句を言うなら結果を出せ』と言われ、やってやるぞと奮起しました」
メッキ工場は夏暑く、冬寒い。たちまち体重は12キロも減り、重い資材を持つ手は腱鞘炎になった。過酷な現場の中で、木下氏は問題点を見出しつつ、一つひとつ改善していった。
「当時の現場では、ひとつの機械に製品を入れたら、出てくるまでみんな立って待っていました。その間に、次の準備やメンテナンスなどできることがある。それまで工程管理が全くできておらず、原因追及のシステムもなかったので、そこを改善して能率をアップし、無駄な残業を減らしたんです」
”結果を出した“木下氏は、続いて会社や業界の課題に目を向けた。
「メッキ業者は、メーカーの下請けである加工業者のさらに下請け。常に”待ち“の体質が染みついている。それが悔しかったし、将来もこれで食べていけるのかという不安もありました。そんなとき、勉強のために訪れた展示会で、様々な会社が特許や大手企業への納入実績をアピールしているのを見て、ぜひ当社も独自の技術に挑戦したいと思ったんです」
研究開発のための資金はない。そこで国の補助金を活用することにした。そして、議員秘書時代に築いた人脈を活かし、全国の見識者を訪ねて協力を仰いだ。その努力が実り、13年には「あらゆるアルミ素材に適応し、かつ毒物を使用しない表面処理技術の開発」が中小企業庁の戦略的基盤技術高度化支援事業、通称サポイン制度に採択。事業化と特許取得にも成功した。この技術は18年に第7回ものづくり日本大賞中国経済産業局長賞、20年には発明協会会長賞も受賞している。
こうしてアサヒメッキの知名度を上げることに成功した木下氏は、さらに新しい独自技術の開発を模索した。その結果生まれたのが、世界で唯一の色調均一化を可能としたステンレス発色技術「Ororu(オロル)」だ。
「弊社では、以前から介護用機器に用いるステンレス鋼の電解研磨を手がけていました。『stainless』の名前通り、錆びにくく耐久性があることが長所ですが、銀白色の金属感が強く、冷たいイメージがするのでインテリアには好まれない。温かな色合いも作り出せたら、活用の幅が広がると思いました」