
熱意ある人に導かれた医療者への道
父は医師、母方にも医師が多い家系で「幼い頃に風邪をひいたとき、祖父に注射してもらった記憶があります」と振り返るように、林田氏は物心ついた頃から医師の背中を見ながら育ったという。また、優秀で周囲から期待される兄、勝ち気で行動力があり、常に弟を叱咤激励する姉と、後にともに医師となる兄弟の影響も大いに受けた。
林田氏自身は、性格は引っ込み思案で勉強は苦手。人を見て影響を受ける性格で、医者になる意志も強くなかった。絵画や粘土での造形など美術への興味が強く、実際に芸術の分野に進みたいと家族に相談したこともある。
「そのときは家族から『絵が描きたければ、手塚治虫さんのように医師免許を取ってからいくらでも描けばいいだろう』とあっさり説き伏せられました。それだけの覚悟や才能がないことも見透かされていたんでしょうね」と笑いながら振り返る。
二浪して兵庫医科大学医学部に入学し、医師としての道を進みだした林田氏。自身の生きる道を決定づけたのは、医師免許取得後に眼科を選択し、トップクラスの研究者が所属する大阪大学大学院に入ったことだ。「私が眼科を選んだのは、今思うと、ずっともち続けた芸術など『見ること』の興味、探求心が強かったからかもしれません」。
大阪大学大学院では、のちに世界初のiPSによる角膜移植を成功させる研究者、西田幸二教授らとともに、角膜上皮幹細胞を用いた眼表面(角膜、結膜)の再建の研究に打ち込んだ。その後渡米し、フロリダ州マイアミのオキュラーサーフェスセンター研究助手として勤務。米国では複数の研究を同時進行で進めながら、毎朝、進捗を発表する緊張の日々を過ごした。「研究者としての毎日は心身共にきつかったのは確かですが、熱意あふれる先生方が、意志の弱い自分のレベルを引き上げてくれた」と、国内外の恩師、同僚への感謝の念は今も変わらない。
帰国後は、国立病院などで眼科医として難治性白内障手術や網膜硝子体手術などを数多く手がけた。また研究者としては口腔粘膜から幹細胞を採取し角膜に移植する動物実験を成功させるなどの業績を上げ、眼科医として、また研究者として着実にキャリアを重ねていった。